
この間富士山の山頂で御来光を見た時に気が付きました。
本来、日本人にとっての富士山というものは、神聖であり、信仰の一部でもあり、また神道、神社の一部でもあります。
太陽信仰でもある神道が、日の出を拝む時というのは、ひときわ神聖なこと。
DNAの働きか、はたまたそういう教えが脈々と根付いているのかは不明ですが、やはり御来光を見る時の日本人は、大概手を合わせているか、「わ~!」という溜息交じりの声を出すか、そのどちらかでした。
ところが、富士山と言えば、今や外国人観光客の立ち寄り名所。
主に中●人が多いのですが、この人種は登るまではしません。
大体5合目でお土産を買ったり、富士山の写真を撮ったり程度です。
しかし、それでも私の主観では、約半数は外国人に見えました。
ともなると、太陽信仰はおろか、日の出に対しての価値観というものが全く違います。
一体どう違うのかというと、日本人は基本、神社仏閣での身の振る舞いと同じ感じ。
粛々と日の出を愛でる。
しかし、一方で外国人の方はどうでしょうか?そう、愛でるというよりか、イベントの一つという感じ。
「オ~マイゴ~ッ!!」なのです。
人によっては、年越しイベントのような賑わい。
OMG!OMG!OMG!って、まだ多分出るまで時間かかるよ?って教えたくなるくらいのテンション。
なんか違うけどね~。と思いましたが、これこそ世界で神道信仰が少ない現れだと思いました。
場所が変われば、土下座して頭を地面に付けているようなレベルです。
同じ瞳で見ていても、捉える方向性は宗教という常識の観点で全く違うものだなと思いました。
だからといって、その外国人の考え方がおかしいと言う気は毛頭ありません。
むしろ、こうやって時代が動いてゆくのだと、日の出の動きの速さと共に思って見ていました。
世の中、最も優れた事なんてありませんのでね。
ただ、こういう場面を見て、私は一つの事象を思い出しました。
アメリカのメジャーリーグで、日本人メジャーリーガーのイチローが、3000本安打を達成したときの実況アナウンサー。
とてもシンプルで、ヒットを打った事実以外は放送事故のような無言の時間を用意しました。
一方、日本のスポーツ界における実況中継のアナウンサーはどうでしょうか?
まぁ、いつまでもワーワーとしゃべり続け、もはや自分が出過ぎる事で、全く主役を理解していません。
これはむしろ日本人の美徳に反する精神かと思います。
実況アナウンサーはクラシック音楽を聴きに行きなさいと。そこにある「間」に魅了されてみては?
いつも最初に「私にとって、あなたにとって」という隠れた主語を忘れずに振る舞いたいものです。