
新しい事というのは、自由な発想から創造されるもので、誰も考えた事のない構想を経て生まれるものです。
誰かの真似は自由ではなく、そして創造性に欠けるもの。
それでも真似て覚える事は多々あります。
しかし真似で終わるか終わらないかは、そこから自分が創造できるかできないか。
私の職業の場合だと、自分が本当に下手だから、施術方法について創意工夫をするしかない。
見た事のないやり方でヒラメキと後から付いてくる論理。
そしてそれを段々と進化させてゆくと、昔に習った著名な先生の手法の「反対側のドア」から自分が顔を出している事に気が付く。
単に手を乗せるだけでも、この圧力でなくてはいけない理由、立ち位置のルールが「なるほど恐ろしく合理的だったのだ」と。
所詮人間の考えることになど大差はない。
しかし真似で終わるといつまで経ってもその手法の本筋は見破れない。
何しろ自分でたどり着いた結果ではないから。
山で言えば、登山道を歩いて死にそうになりながらたどり着いた山頂が、後から調べてみて「乗鞍」という山の名前だったというのと同じこと。
一方で、ロープウェイで乗鞍の山頂まで行って登頂したと言うのが真似。
困ったことに、こういう人に限って、専門用語やらテクニック名やらを羅列する。ま、当然の話しだろう。彼らにとっては中身の本筋よりも、この名前の方が大事なのだから。
とくにインターネット社会で、受動的に情報を取り込む社会になったせいか、黙って口を開けていればきっと身近にいる人が教えてくれ、提案してくれると勘違いをしている。
動くのは自分。ロープウェイで登る事を辞めて、まず自分の足で歩かないと。
自分から行動に出て、そこで感じたインスピレーションを新しい創造に発展させる。
気が付いたらその山がどんな名前の山だったかも、どれだけ高い標高だったかも、そんなのはどうでもよくなっている。
時代はいつも流行り廃りの繰り返しだが、流行り物というのは黙って座っていれば自動的に流れてくるもの。
つまり、それを掴んで流されている方が楽なのかもしれない。
しかし、それが果たして、自分の人生を自分の足で歩くことなのか?と聞かれれば、私は全くそうは思わない。
ロープウェイで自動的に見える景色なんて、誰でも見られる世界だし。