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無風状態

 

人は社会と接していると、知らず知らずの内に何かしらの流れに乗らされて生きています。


厳密には、自分以外の人と接していれば、そこには「影響力(風)」があり、そうやって流れが出来上がるものです。

例えばお店で流れていた音楽を、自宅に帰っても口ずさんでいたり、CMでも同様の事が起こったりするのも同様です。

新聞雑誌やニュースは勿論の事。

一度他人に動かさせれている事に違和感を感じなくなってしまうと、もはや人の風に流されているのか、そうではないのかに気が付かなくなってしまいます。

しかしその風が、必ずしも自分の身体や精神の活動に合致したものとも限りません。

これが体や精神を乱し、崩してしまう根源でもあります。

ならば一旦流れを自分のものに戻してしまえばいい。

趣味でもいいし、楽しい事でもいい、自分が自分の好きに行える事をするといい。

中でも座禅や瞑想はとてもシンプルに自分のペースにリセットしてくれるものです。

じゃあ座禅や瞑想でなければならないのかといえば、全くそんな事はない。

例えば、山登りとてそれに匹敵し、状況が重なれば何も経験が無くても一気に精神のリセット及び凝り固まった思考をゼロに戻すことが可能です。

音楽だってそう。空間に響き渡る音に自分の内側にある意識を乗せて拡大して行けば、自分の内部の固まりが自由な空間へ一気に解き放たれます。

 

まさに無境界。

手法は自由。概念こそが束縛そのもの。


自分が他人に流される事を定期的にリセットしていれば、必要なものは全て勝手に寄ってくる。

これこそが昔の山岳信仰の所以だと思います。心願成就、登って神に祈れば解決策がまるで神の仕業であるかのごとく降ってくる。


何かでなければ成し得ない事などこの世にはありません。

だからこそ、私は「分野に区切る」というのは好ましいものだと思わないんですよね。

分野こそが理論を基にした意識の収縮そのもの。

そうではなくて、無限なる意識の拡大をしたいのです。

ブラックホールの様に、収縮の行き着いた先に無限があるという主張も一理ありかと思いますが、通常は達人の域に達しないと、そこまでの収縮には行き着かないでしょう。