嫌われる勇気。
そんなタイトルの本を書店で見つけました。
「自由とは他者から嫌われることである」ですって。
やっぱりドンドン嫌われることにしてみるか。
もう落ちるところまで落ちているし。
死刑について考えた事はありますか?
是非論から入ると、最後は人それぞれの思想観での意見になりますから、これは難しい問題。
ただその中で、現在日本ではそれを執行する国家です。
よって、以下は私の思想を反映させた意見や考え方であって、誰でもそうであるべきという意味ではありませんし、逆に意見が偏った時にこそ、集団大衆の不健全さの一面が顔を覗かせるものだと思います。
私は決して廃止派ではありません。
何しろ凶悪的なものに関しては、他人事であっても心が痛みます。
同じ目に合わせてやれ!という意見も時にはごもっともと感じる時もあります。
子供や動物なんかを虐待したニュースなんかは特に。
ただ、現代社会の国民は、事件はニュースで知っている(半年程度しか覚えていませんが)、しかし裁判は傍聴しないし内容は全く知らないし、判決理由も知りません。かろうじて判決結果だけはマスコミを通じて目にする機会があるというだけです。
一方で、時代が違えば、ギロチン公開処刑に晒し首、火あぶりにして、または街中を引きずり回して最後は民衆が撲殺をしたり、一人一人が息が絶えても刺し続けることもあったようです。

どうですか?グロイですかね?酷いですか?または残虐ですか?
実は私はこの時代の方が今よりもある意味健全な手法だったと思っているんです。
何故か?
現代では裁判官が最終判決を下します。しかし、裁判官が特別に偉くて死刑判決を出しているわけではありません。簡潔に言えば、国民一人一人の代理として裁判官が法の元で我々の代わりに仕事をして下さっている。
そしてそこで出た判決に従い、我々の間接民意で選ばれた法務大臣が執行の指示を出します。

ま、ご存知の通り、最後のボタンは刑務官3人が、ランダムで機能するボタンを同時に押して執行されるわけです。
っで、刑務官は人殺しですか?法務大臣は?裁判官は?
いや、正確には代理で執行して頂いているわけで、これは日本国民一人一人が執行者。
それなのに、国民は何も知らずに執行された日であっても、焼肉に刺身にレバーを食べるんです。
この他人事の執行になんの意味があるのですか?
我々国民の平均内にない社会から外れた人々を、更正の余地もなく死刑だと判断したわけです。
だったら公開でギロチン、火あぶり、引きずり回した後に皆で殺した方がよっぽど直接的。
最低限、断る事が出来ない決まりで国民が死刑台のボタンを押しに行かないと。
結局あやふやにして誤魔化し、国民の罪悪感を無くすことで、国民がそれを執行しているという大前提を忘れていると思うんですよね。
ちなみこの場合、私は嫌ですけど、国民として選ばれたのならボタンを押しに行きますね。
何でこんな話題を持ち出したのかというと、本日オウム真理教の事件で死刑判決を受けた人達を、東京から各地に分散させたというニュースがあったから。
おそらく同日執行なのかな?ニュースを見ていても結構テレビの中の出来事になっていたように思いましたので。
とても気になるのが、なぜこの時期にというのが昨日の話題に繋がるわけで。
内容の特殊性から言って、お気を悪くされた方がおられましたら申し訳ございませんでした。
ただ、実際に代理で係わってくださっている人が居るわけですので、税金から給料を払っているから、仕事だからいいでしょ?ではなくて、ちょっとは一国民として重く受け止める必要があるかな?と。