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気構えの真意

*すみません、最初に記事をアップしたのですが、内容があまりにも薄っぺらかったので書き直しました。

 

 

 

技術を身に付けるという事は、複数のやり方や考え方を習う必要がある。

 

ウソです。

 

ひとつで十分。

 

現代社会では沢山の選択肢を持てる機会がある事を利点としていますが、それは真逆です。

 

ひとつのテクニックを信じ、もがき苦しむ。

 

そうやって半世紀前の伝統技術や食文化が誕生し、そして現代でそれを凌ぐどころか、再現すら出来ないものも沢山あります。

 

登山道の入口で、複数の道があるのと同じく、途中で分からなければまた戻って他の道、そしてまた他の道と、結局登って降りての繰り返し。

 

気が付けば、頑張りや意気込み、努力だけは立派なものの、一向に山頂との距離は変わらず遠回り。

 

むしろ山頂まで行けるくらい歩いたのでは?とすら。

 

ご苦労様。

 

頑張りや意気込みというものは聞こえは良いが、必ずしも正義ではありません。

 

 

どんな分野でも、各登山道の行き止まりを切り開く為に必要なものは、人間の持つスピリット。

 

一定のレベル以上の隔絶された別領域に達するには、確率論では有り得ない事を起こす「直観能力」を信じ、それに全部を預ける度胸が必要です。

 

それをスピリチュアルの分野では「マスター」というらしいが、確かに「もう一人の自分」と表現する感覚もわかる。

 

最初からそれを信じることはできない。

 

しかし、訓練をして行けば結局なんだかんだでそちらのマスターが正しいということに自信が持てるようになってくる。

 

結果、現実的に頭で考えることなんて無価値にすら思え、最初からそれに従うようになってくる(社会的不適格者となる弊害がある)。

 

なるほど、いずれの登山道も行き止まりに見えたはずだ。何しろその先は暗闇の崖に見えたのだから、現実脳ではそこを落ちる勇気はない。

 

崖から足を踏み外しでもしたら、落ちることなんて常識で考えればわかるだろうと。

 

しかし、もう一人の自分と直観を信じ切れる人は、全部をそれに委ねることが出来るから、行けるという感覚を信じ、命すらもかけて落ちてみることができる。

 

結果、ワープでもしたかの様に、山頂までとても見晴らしのよい登山道に自分がたどり着いている。

 

 

まるで昔の人が考えた、海の先は崖になっているという考えと同じ様に。

 

「絶対にそこから先は行けない」と教育された脳が、反射的に崖は崖だと思ってしまう。

 

人が人に教えることは出来ないという理由は、他人が個々のマスター、又は直観能力へあれこれ命令し、介入することができないからだ。

 

むしろそれをやると、また複数の登山道を更に用意してしまう事になってしまう。

 

教えられるのは「気構え(心構えともいえる)まで」という意味はそういうこと。

 

地球の先は崖ではないという事に、気付く習性を身に付けさせること。

 

 

気構え以外は後は自分のスピリット。

 

 

世にある「自分を信じる」とか「自分らしく」とかいう言葉の真意は上記の事だと私は理解していますが、これもまた意味を知ってか知らずか薄っぺらく多用されていますよね。

 

 

優しいでしょ?ここまでに至るまで、人には言えないくらいの苦労や大失敗をどれだけしたことか。

 

だけどそれとなく気付けるように伝えるのが、先を生きる「先生」というものだと思っている。

 

先生は決して教育をしてはいけない。

 

 

私なんか、自分が生きているのか死んでいるのか、その真ん中なのか夢なのかという事から、まぁいいやと崖からダイブしてしまったパターン。

 

哲学的に飛んだだけ。

 

そんな苦労を無料で書いちゃうんだから。

 

どうも現代人は秘密にしておきたいみたいだけど。

 

それでも学習された脳(社会)で、私の言う事を拒絶する人の方が多いという・・・。

 

 

先日話をした人が、その事を十分理解しておられる方。

 

「話が出来る人が少なくなってしまいますよね」と。

 

確かにホンネではその通り。

 

が、私は拒絶する人の話も「そうですよね!」「その通り!」「仰る通り!」「素晴らしい!」と大げさに言ってあげる事にしています。

 

何せ私は わ・る・い・ひ・と だからね。

 

嫌われているくらいがちょうどいい。