
態々置いていきました。
六員環構造水らしいです。
「目スッキリするよ」とのこと。
そして今日の話題は、パラレルワールドについて。
つまり、自分が今生きている空間以外に、次元の違うところで同じように自分が存在しているということ。
夢はまさにパラレルワールドを見ているのではないのか?と。
左脳が自発的に夢を抽出しているわけではない説。
最近ここのブログでも少し取り上げました、見えない力の能力は、自分で考え気が付いたとしたならば、一度はここにたどり着くんですよね。
ま、その時にブログに書き、考えたからこそ、そういう思考回路の人と勝手にそういう話題になる。
これって非科学的ですか?
はい、それでも結構。私にとっては誉め言葉。
なにしろ科学と同じ分量だけ、非科学的な領域は必ず存在するという思想ですからね。

まさに陰陽の世界。
ま、非科学的と揶揄されるのは結構ですが、ちなみにこの話題で盛り上がった主は、家電製品で飛躍中の初代から「Dyson」のサイクロン掃除機を手掛けた方ですからね?
本当に最初の最初から。
今は違う会社の社長ですが、この間のダボス会議でも、ジャパンナイトで開発商品をご披露なさったそうです。
やっぱり脳ミソが動いている人と話すのは面白いですね。
お互いに新しい発見があるし、今度メシを食べに行こうとなる。
教わった事をそのまま真似てみるのは最初の入口ですが、教わった事を自分の人生の経験の叡知で合成させる。そこで初めて知識になるわけです。
医学で言えば、教わったままの真似しか出来ない人は、いわば解剖をしたことのない人同然。
教わった事を真似して経験し、そしてそれを自分の考え方でトゥルーだと思う意見で違うものに発展させることができる。これぞ実際に解剖をしたことがある人としたことが無い人の差みたいなものです。
私は米国の9.11事件後の年末に、サンフランシスコの大学で人生で初めて人体解剖実習をしました。
というよりは、正確にはその真似をした。
真似と表現した理由は、解剖担当の先生が組んだプログラム通りに言われるがままのエスカレーター式であって、脳を働かせる暇もなかったから。ただ各部の名称やその走行を観察するだけだった。今の平和な日本国家の国民のように、ただ世の中の動きに従っているのと同じく。
参加するだけの学習なんて、やってもやらなくても正直大差はない。
修了証だって紙切れ以外には何の価値もなく、精々無駄な時間を過ごした思い出くらいにしかならない。
むしろそんな物で「解剖実習をしました」と自慢出来る分では質が悪いかも知れません。
一方でその後、ハワイで各年2回解剖実習を行いました。1回目とは全く違い、自分の普段描いている人体の習性や疑問点を、自分の手で皮を剥いで、筋肉や神経、内臓を引っ張り切り、動く部位を何度も観察し、自分の着眼点が合っている事を証明する。
例えば、人は骨盤にある左右2対の関節があり、それぞれの大きさや形状や角度が違ったりする。
では、左に比べて右の角度が鋭角な場合、その上に乗る腰椎はどちらに側弯を起こし、経年劣化(変形)しているのかを調べてみた。
誰も語っていない理屈が、一定の仮設から確証に変わる。
こうやって、自分の経験と共に、世の中ではあまり言われていない新しい自分なりの治療理論が構築される。
日本に帰ってやってみると、確かに仮説の通りの結果になる。
では、その私なりの結論を誰かに必死に教えたとしよう。
全て伝授する。
が、その人は発展性を失うのだ。何故ならば、教えられただけであって、自分で疑問に思い、そしてその小さな疑問から調べ、発見し、積み上げる工程を経ていない。
つまり単に教えられただけ。
人が人に教える事なんて所詮無理なんです。
よって、何かの壁にぶつかれば自分で乗り越える事が出来ない。
しかし、自分で気が付き発見した人は、一つ一つの経過を知っているから、どこの部分での過ちだったのか直ぐに察しが付く。
この差は歴然だ。
だからこそ、壁に登る背後からお尻を押したりなんかは教育ではない。
登れる握力がない人間を次の砦に行かせてしまっては、次には更に高い壁をにぶつかる。そうすると「またお尻を押して下さい」となるか、1回目でさへ手を貸して貰ってようやく登れた壁なのに、更に高い壁を、しかもお尻を押して貰わずに登れる気なんてしないはずだ。
だから知識だけ教えて出来た気にさせる現代の風潮はいささか疑問だ。
誰とは言わないが、グーグール大先生なんかもそれに近い。
あ、そうそう、何で六員還構造水を載せたのかというと、意味もなく掲載したわけではない。
確かに優れた水で科学的見解でも効果がある。
が、私はこれと同じような働き、いやそれ以上の働きをする水は水道水で自分で作れると思っている。
これぞお茶やおもてなしの世界の真髄ではないか?と。
さて何だろう。